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Historical Document · 2008

Ise Electronics: Development and Commercialization of the VFD (case study, in Japanese)

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A business-history case study of Ise Electronics and the vacuum-fluorescent display: Tadashi Nakamura, Sharp, the Burroughs Nixie royalties, production growth and licensing (in Japanese).

Author
Kosaka and Takeishi, Hitotsubashi University
Year
2008
Type
Historical Document
Language
ja
Credit
Via the IEEE Milestone proposal, Engineering and Technology History Wiki (ETHW).

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Ise Electronics: Development and Commercialization of the VFD (case study, in Japanese)

一橋大学 21 世紀 COE プログラム 「知識・企業・イノベーションのダイナミクス」 大河内賞ケース研究プロジェクト 伊勢電子工業 蛍光表示管の開発・事業化 小阪玄次郎 武石彰 2008 年 9 月 CASE#08-05 本ケースは、一橋大学・文部科学省 21 世紀 COE プログラム「知識・企業・イノベーションのダイナミクス」から経費の 支給を受けて進められている、「大河内賞ケース研究プロジェクト」の研究成果のひとつである。このプロジェクトは、 大河内賞を受賞した業績について事例分析を行うもので、(財)大河内記念会と受賞企業のご協力をえながら、技 術革新の概要やその開発過程、事業化の経緯や成果などを分析している。事例研究を積み重ねて、日本の主要 なイノベーションのケース・データを蓄積するとともに、ケース横断的な比較分析を行い、日本企業のイノベーション 活動の特徴や課題を探り出すことを目指している(詳細は http://www.iir.hit-u.ac.jp/reserch/21COE.html を参照 のこと)。本プロジェクトを進めるに際して、(財)大河内記念会より多大なご支援・ご協力をいただいており、心よりお 礼を申し上げたい。 ※本ケースの著作権は、筆者もしくは一橋大学イノベーション研究センターに帰属しています。本ケースに含まれる 情報を、個人利用の範囲を超えて転載、もしくはコピーを行う場合には、一橋大学イノベーション研究センターによ る事前の承諾が必要となりますので、以下までご連絡ください。 【連絡先】 一橋大学イノベーション研究センター研究支援室 ℡:042-580-8423 e-mail:[email protected] 白紙 一橋大学 21 世紀 COE プログラム 「知識・企業・イノベーションのダイナミクス」 大河内賞ケース研究プロジェクト 伊勢電子工業 蛍光表示管の開発・事業化 2008/09/18 一橋大学大学院商学研究科博士後期課程 小阪玄次郎 京都大学大学院経済学研究科教授 武石彰* *〒606-8501 京都市左京区吉田本町 Phone: 075-753-3426 Fax: 075-753-3492 Email: [email protected] 白紙 1. はじめに テレビ、パソコン、携帯電話の画面、自動車の計器盤、街頭の大型スクリーン、店頭 のレジの表示器、駅、空港、高速道路、スポーツ施設などの電光掲示板 ――現代に生 きる我々は、さまざまなディスプレイ(表示装置)にうつし出される文字や画像情報を みながら日々の生活を過ごしている。 ディスプレイに使われる技術にはブラウン管、液晶、LED、プラズマ、EL などいくつ かの種類がある。本ケースで取り上げる蛍光表示管もその一つである。熱電子放射現象 によって飛ばした電子を蛍光体に当てて発光させることで表示機能を実現するディス プレイ・デバイスである。 主要なディスプレイの基本技術はそのほとんどが欧米で開発されたのに対して、蛍光 表示管は基本原理から日本で独自に生み出された。誕生したのは、日本企業の電卓をめ ぐる技術革新の黎明期のことだった。1960 年代半ば、小型で低価格の電卓の開発に取 り組んでいた早川電機工業(現・シャープ株式会社)は低コスト、低消費電力で数字を 表示できるデバイスを欲していた。この要望に応えて開発されたのが蛍光表示管であっ た。開発を担ったのは産学の様々な組織から集まった技術者、研究者達であり、製品化・ 事業化を担ったのは開発者が創業した伊勢電子工業株式会社(現・ノリタケ伊勢電子株 式会社1)であった。 「産学連携によって生み出されたオリジナル技術が新興企業によっ て事業化され、新しい業界の創出を可能にする」という今の日本が求める物語が、40 年以上前に存在したのである。 蛍光表示管は、開発当時既に成熟していた真空管の技術に基づいており、10 年ほど で姿を消すのではないかとも思われていた。事実、電卓用のディスプレイは蛍光表示管 が開発されてから 10 年ほどの間に液晶に取ってかわられた。しかし蛍光表示管には明 るく、見えやすいという長所があり、その後もしぶとく新しい市場を開拓し、今なお生 き続けている。現在も、日本企業が内外の蛍光表示管市場で主要な地位を確保しており、 生みの親である伊勢電子工業もその一角を占めている。 このケースは、蛍光表示管が開発された当初のいきさつとその後の展開を記述するも のである2。 1 以下、本ケースでは主として開発初期の経緯を取り上げることから、当時の名称「伊勢電子工 業」を用いることとする。 2 本ケースは、一橋大学 21 世紀 COE プログラム「知識・企業・イノベーションのダイナミクス」 の研究プロジェクトのひとつ「大河内賞ケース研究プロジェクト」 (http://www.iir.hit-u.ac.jp/reserch/21COE.html)の一環として作成したものである。本ケ ースでとりあげる伊勢電子工業の平型蛍光表示管は 1977 年度に第 24 回大河内記念生産賞を受賞 している。本稿を作成するにあたって、後掲の参考文献の他に、以下の講演、インタビューを参 考にした:中村正氏(ノリタケ伊勢電子株式会社名誉会長)講演会ならびにインタビュー 1 2. 蛍光表示管とは 蛍光表示管の概要 蛍光表示管とは、主に青緑色で図柄や文字等を表示するディスプレイ・デバイスであ る。 例として、代表的な用途である DVD プレイヤーや音響機器の表示部分を図 1 に示す。 2003 年時点の市場規模は 740 億円にのぼるが、この内 44%が DVD プレイヤーなど AV 機 器向けで、それに次いで 31%が自動車の計器盤などの表示部分向けである。 蛍光表示管は真空管の原理を利用して表示を行う。図 2 に示すように、蛍光表示管の 構造は、ガラス基板上に配線と蛍光体を印刷した陽極(アノード)、陰極(カソード) と制御電極(グリッド)を溶接で組み立てた金属部品、これらを容器に閉じるためのフ ロントガラスの三つの層から構成されている3。これらを組み立てて出来る容器から排 気装置によって空気を抜き、中を真空にして、陰極を約 600℃の高温に加熱すると、陰 極の表面から電子が離れ他の気体分子のない真空中を移動する熱電子放射という現象 が発生する。陽極に電界を加えてこの電子の移動を加速し、制御電極でコントロールを しながら陽極に塗布された蛍光体に衝突させることで任意の文字を表示させて、それを フロントガラス側から見る。これが蛍光表示管の仕組みである。 液晶や LED など他のディスプレイと比較すると、蛍光表示管の特長は、輝度が高く、 視野角が広いという点にある。また、基本構造が真空管であるため、耐熱性と耐湿性に も優れる。消費電力も、液晶ほどには低消費電力でないにせよ、比較的小さい。短所と しては、大型化や、高精細化、フルカラー化に制約がある。このため市場規模は限られ るが、真空管という枯れた技術を用いた蛍光表示管が様々なディスプレイ技術が急速に 発達している今日においてなお存続しているのは、蛍光表示管が固有に持つ上記の長所 のためである。 (2007/5/10、2007/7/6、2008/7/11)、長谷川典久氏(同常務取締役)講演会(2007/5/10)、坂 倉俊一氏(同管理統括部管理部長)講演会ならびにインタビュー(2007/5/10、2007/7/6、 2008/7/11)、川井賢氏(同知的財産室室長)インタビュー(2007/7/6)、佐々木正氏(国際基盤 材料研究所取締役会長)インタビュー(2007/8/30、2008/5/30)、信田恵壱氏(佐々木正・信田 事務所大阪事務所長)インタビュー(2008/5/30)(所属、役職はいずれもインタビュー当時) 。 お忙しい中、貴重な時間を割いてご協力いただいた以上の方々に深く感謝する。また、 「大河内 賞ケース研究プロジェクト」のコーディネーターである藤井由紀子氏には、ケース作成で多くの サポートをいただいたことに感謝したい。「大河内賞ケース研究プロジェクト」を進めるに際し て多くのご協力をいただいている大河内記念会にも感謝する。ただし、書かれている内容は上記 の情報・資料に依拠した筆者の理解に基づくものであり、文責はあくまでも筆者にある。また本 稿の記述は企業経営の巧拙を示すことを目的としたものではなく、分析並びに討議上の視点と資 料を提供するために作成されたものである。 3 陰極と陽極、制御電極という三種類の電極から構成される真空管を三極真空管と言い、蛍光表 示管はこの三極真空管の一種である。 2 例えば自動車用のディスプレイは、太陽光下でも夜間でも読み取れるよう十分に明る く、酷暑と酷寒という温度差にも耐えなければならない4。常に生じる振動や、急発進、 急停止などの衝撃にも対処する必要がある。このような厳しい環境にさらされても動作 できるディスプレイとして、今でも自動車用には蛍光表示管が多く採用されている。据 置型の AV 機器でも、鮮明で高品位な表示や、リモコン操作で遠隔から見ても判別でき る高い視認性といった要求を満たすディスプレイとして、依然として蛍光表示管が優位 である5。 蛍光表示管業界 冒頭でもふれたように、蛍光表示管は、基本原理から日本で全て開発されたという意 味で唯一の国産ディスプレイともいわれるが6、これを実用化したのは、伊勢電子工業 という新興の企業であった。1967 年に伊勢電子工業が初めて電卓用に製品化し、その 後に伊勢電子工業からライセンス供与を受けた日本電気と双葉電子工業の 2 社が参入 し、以来、3 社で市場の全量を生産する時代が 90 年代まで続いた。1998 年に日本電気 が撤退して以後は、新たにサムスン・グループと中国企業の合弁である SSVD(Shanghai Samsung Vacuum Devices)や中国の ZEC が市場に参入した。 図 3 に 2003 年の蛍光表示管業界の市場シェアを示す。この業界のトップ企業である 双葉電子工業が、数量シェアの 48%、金額シェアの 65%を占める。蛍光表示管を生み出 した伊勢電子工業は、今では株式会社ノリタケカンパニーリミテドの子会社のノリタケ 伊勢電子となり、数量シェアでは 5%ほどだが、金額シェアでは 18%と、高付加価値製 品の生産で一定の市場地位を確立している。ノリタケ伊勢電子の 2007 年現在の規模は、 売上高 103 億円、従業員 640 人である。 以下、伊勢電子工業が蛍光表示管をどのような経緯で開発・事業化していったのかを 辿っていくこととする。 3. 開発・事業化の経緯 4 自動車用に蛍光表示管が最初に採用されたきっかけも、蛍光表示管の耐環境性が評価されたた めであった。1970 年代、双葉電子工業の蛍光表示管が米クライスラー社の耐久試験を受けてい る際、休日の前に温度試験装置のスイッチを切り忘れ、丸 3 日間、100℃近い高温状態に放置さ れたが、月曜日にそれを取り出したところ正常に作動していた。それがクライスラーの受注につ ながったという。 5 例えば、世界的なスピーカー(音響機器)メーカーとして知られている米国ボーズ社のオーデ ィオ製品には伊勢電子工業の蛍光表示管が使われている。 6 主要な他のディスプレイの場合、例えば液晶やプラズマ・ディスプレイ、LED、有機エレクト ロルミネッセンスはいずれもアメリカで発明されている。 3 前史 きっかけは、1965 年の夏に早川電機工業(現・シャープ株式会社)の産業機器事業 部長だった佐々木正(後にシャープ副社長)が何人かの知り合いの技術者や研究者に声 をかけたことだった。 佐々木は、当時事業化に取り組んでいた電卓事業のために、新しいディスプレイ・デ バイスを求めていた。そのころ電卓用のディスプレイには米バローズ社のニキシー管が 使われていた。これをより低電圧、低消費電力で動作する安価なディスプレイで代替で きれば、電卓の低価格化や小型化が容易になると佐々木は考えていた。 しかし、ニキシー管に代わるディスプレイをシャープ社内で開発することは難しかっ た。失敗のリスクもあったし、社内で開発していることをバローズに知られて関係がこ じれるような事態も避けたかった。そこで佐々木が思いついたのが、社外で新しいディ スプレイの開発に取り組むことだった。以前に勤めていた神戸工業株式会社で部下だっ た中村正や、同じく同社で取引のあった日本電子材料の社長の大久保昌男など何人かの 知り合いの技術者、研究者に声をかけて、共同で検討するという方法であった。これが 蛍光表示管の開発の端緒となったわけだが、そこに至ったいきさつを理解するため、い ったん時計の針を戦前までもどすこととしよう。それはまた、日本における真空管技術 の歴史の一断面を振り返ることにもなる。 佐々木は、京都帝国大学の加藤信義教授の下で真空管工学を学び、1938 年、逓信省 の電気試験所に入所した7。しかし真空管を担当する部長の楠瀬雄次郎が神戸の川西機 械製作所に移籍する際に乞われ、同年 8 月には佐々木も川西機械製作所へ移ることにな る。戦前の川西機械製作所は、主に航空機に搭載する無線機用の真空管を軍へ納入する 軍需工場として成長していた。ここで佐々木は真空管事業部長として真空管工場の運営 やレーダー技術の研究を行った。 戦後、川西機械製作所は神戸工業と社名を変え、無線機用で蓄積した真空管技術を民 生用のラジオ製造のために転用し、国民型ラジオや、自動車用ラジオを生産した8。神 戸工業は真空管で高い技術力を持ち、 「東の日本無線、西の神戸工業」と称されるほど、 技術的な先進性で業界に知られた会社だった9。日本の電子技術の遅れを挽回する国策 で、米 RCA 社から真空管の技術導入を最初に行ったのは神戸工業であった10。さらに、 7 現在の産業技術総合研究所。佐々木が逓信省の電気試験所に入所した理由は、当時、真空管の 主要な用途の一つが電話線のレピータ用だったためである。レピータとは、電話線を伝って信号 が減衰するのを再度増幅して伝える中継装置である。 8 トヨタ自動車の依頼で最初の自動車用ラジオを真空管で作ったのが神戸工業である。商標をテ ンラジオと言い、現在の社名である「富士通テン」にその名が残っている。 9 ノーベル物理学賞を受賞した江崎玲於奈もソニーに移籍する前の 1956 年まで所属していた。 10 RCA から 2 番目に導入したのが東京芝浦電気、3 番目が日立製作所である。 4 真空管にとって代わることになるトランジスタについてもアメリカからの技術導入に 先駆的に取り組み、1953 年にはトランジスタの製造に日本で初めて成功し、1955 年に は同じく日本で初めてトランジスタ式のカーラジオを製品化するなど、高い技術開発成 果をあげた。 しかしもともと軍需工場として発展した経緯もあってか、技術志向に偏った会社でも あった。戦時中には軍が豊富な資金を提供し、性能の高い製品を生産できれば軍が買い 上げていたので、性能の高い商品を販売すれば売れるはずだという雰囲気が社内に根強 かったという。技術力が事業上の成果にまでなかなか結びつかず、神戸工業の資金繰り は次第に悪化した。 1960 年代初頭には、富士通が神戸工業を吸収合併するという話が持ち上がる。富士 通は、電話線用の真空管技術を保有しておらず、米ウエスタン・エレクトリック社の真 空管技術を保有する日本電気との競争で不利に立たされていた。そこで富士通は神戸工 業を吸収合併して真空管技術を獲得することを意図したのである。しかし富士通への吸 収合併が成立する 1968 年までの間に、神戸工業の自由な開発環境が失われることをい やがった多くの技術者は社外へ流出し、大学や、双葉電子工業など真空管関連の民間企 業へと移っていった。神戸工業の技術開発担当取締役をしていて、1964 年 4 月に早川 電機工業へ移籍した佐々木もその一人だった。その佐々木が早川電機工業で取り組んだ のが、トランジスタを活用した小型で安価な電卓の開発だった。 電卓、表示管をめぐる当時の事情 早川電機工業の早川徳次社長や佐伯旭専務は電卓に注目し、佐々木が入社する直前の 1964 年 3 月に世界初のトランジスタ式電卓「コンペット CS-10A」を発売したばかりで あった11。佐々木はトランジスタの技術開発をさらに推し進め、IC(集積回路) 、LSI(大 規模集積回路)と回路の集積度を高めていけば、より小型で低価格な電卓を作ることが できるのではないかと考えていた。 佐々木は戦前から真空管の技術開発に携わってきたが、トランジスタの将来性を早く から確信していた12。1960 年代に入ると、戦前から通信用などに広く使われてきた真空 11 世界で最初の電卓は英サムロック・コンプトメーター社が 1963 年に発売した「アニタ・マー ク 8」であったが、これは真空管を使用した製品であった。電子化によって、従来の機械式卓上 計算機に比べて静かで高速の演算が可能となったが、電源を入れても真空管が暖まるまで使用で きないといった欠点があった。 12 トランジスタは米国 ATT のベル電話研究所で 1947 年末に発明されたが、佐々木は発明者の一 人で後にノーベル物理学賞を受賞するバーディーンと戦前から交流があり、たまたま同時期にベ ル研究所に滞在している間にバーディーンから直接話を聞いて、発明直後にその概要を知った。 佐々木は早くもこのときからトランジスタの可能性を高く評価し、ベル研が翌年にトランジスタ 5 管も製品の寿命を終えようとしていた。トランジスタの性能向上によって、ラジオをは じめ真空管の用途はトランジスタが急速に代替しつつあった。 当時の電卓は、サイズは大きく、値段も高かった。例えば CS-10A の価格は 53 万 5000 円だった13。しかしトランジスタの集積度を高め、IC を使うことで 4000 点ほどあった 部品のほとんどをワンチップに集約し、電卓をより小型で低価格にすることができるな ら、電卓は企業や官庁の事務機器というだけに留まらず、家庭用、個人用まで普及する はずだという見通しを佐々木は持っていた。 この見通しを実現する上でひとつの障害となっていたのが電卓用のディスプレイに 使われていたニキシー管だった。ニキシー管は、ネオンガスに電圧を加えてオレンジの 単色光を発光させるもので、170 ボルトという高電圧で動作するため、電卓の駆動回路 として IC を使おうとしても、それほどの高電圧で動作可能な IC がなかった。視認性が 悪く、組立工程が複雑であるという問題もあった。そのうえ特許を保有するバローズは 多額のロイヤリティを要求し、1 本あたり 1000 円程度だったニキシー管の価格はなか なか下がらなかった。コスト削減を実現するため、金額ではなく価格に対する比率でロ イヤリティを支払わせてほしいと要請しても、聞き入れてもらえなかった。電卓の技術 革新を目指す上で、ニキシー管が重要なボトルネックとなっていたのである。 蛍光表示管の発想と開発 佐々木は、こうして 1965 年の夏、ニキシー管に代わる新しい表示デバイスを開発す べく、何人かの知り合いの技術者、研究者に声をかけたのである。 その一人が、神戸工業時代の部下で同社の映像管技術課長となっていた中村正だった。 中村は、名古屋高等工業学校(現・名古屋工業大学)卒業後、1943 年に神戸工業(当 時、川西機械製作所)に入社した。戦時中は、主に暗視管とブラウン管の研究に従事し、 1945 年 2 月には陸軍多摩研究所電波兵練習所に電波兵特別幹部候補生として入隊し、 友軍識別機を担当して東部 92 部隊に属し、9 月には実践配備される予定であった。戦 後神戸工業に復帰した中村は、RCA から導入された真空管技術をもとに、レーダー用や 白黒テレビ用などの電子ディスプレイの専門技術者としてブラウン管の開発を行って おり、この間、大阪大学の電子顕微鏡の権威者であった菅田栄治教授の指導を受けて、 電子表示の研究により同大学から工学博士号も取得していた。ブラウン管技術者として の中村の知識に期待を寄せて、佐々木は声をかけたのだった。神戸工業にブラウン管の の発明を公表する前から神戸工業で研究開発に着手した。そのために新たに採用したのが、前出 の江崎であった。前述の通り、こうして神戸工業は日本で初めてトランジスタを製造する会社と なる。 13 比較のために一例を挙げれば、同じ時期の日産ブルーバードの価格が 56 万円であった。 6 陰極材料を納入していた日本電子材料社長の大久保昌男にも声をかけ、開発の拠点は、 大久保昌男が日本電子材料の京都研究所を提供した。さらに、京都大学の加藤教室の後 輩であった髙木俊宜らにも声をかけ、産学の多様なメンバーが結集して、佐々木の投げ かけた課題に取り組んだ。 佐々木は、「ブラウン管を小さくしたらどうだというおおまかな頭しかなかった」と いう。ブラウン管を小型にして、その 1 つ 1 つで数字を表示すれば電卓に使用できるデ ィスプレイになると考えていた。だが実際にはそれは容易に実現できることではなかっ た。そこには大きな壁が立ちはだかっていた。 第一の問題は、100 ボルト以下の低電圧ではブラウン管の蛍光体は光らないという点 である。ブラウン管は一般に 1~2 万ボルト程度の電圧で動作するものであり、電卓の ために求められた数 10 ボルトという低電圧では、蛍光体が発光しない。これではニキ シー管にとって代わることは不可能だった。ここで、中村は物理学の学術誌 Physical Review で読んだ、酸化亜鉛(ZnO)蛍光体に関する基礎研究を思い出す。酸化亜鉛は数 ボルトでも発光する物質で、中村自身、以前に利用した経験があった。大阪大学で指導 を受けた菅田教授から依頼を受けて、神戸工業で低速電子回折法(LEED: Low Energy Electron Diffraction)用の実験管を製作したときに使っていたのである。ただし、酸 化亜鉛蛍光体の光は暗かった。LEED のように暗室で行う解析用であれば間に合うが、 ディスプレイに使用するとなると輝度が大幅に足りなかった。寿命が短いことも問題だ った。 酸化亜鉛蛍光体の輝度をあげ、寿命をのばすことができないものか。神戸工業時代か らブラウン管の蛍光体で協力関係のあった静岡大学の高木克巳教授と大日本塗料(現・ 化成オプトニクス)の鳥生敬郎に検討が依頼された。大日本塗料は、戦後に神戸工業や 東芝、日立が RCA のブラウン管技術を導入した際に、各社が共通に RCA の蛍光体技術を 利用できるよう蛍光体のライセンス供与を RCA から一括して受けた歴史を持つ企業で ある。依頼から半年ほどで、高木と鳥生はかなりの程度改善することに成功する。 それでもまだ問題は残った。第二の問題は、酸化亜鉛蛍光体を改良しても、依然とし て輝度が不足することだった。高木や鳥生の努力があっても、酸化亜鉛蛍光体ではブラ ウン管と同等の輝度までは達しないことは明白だった。この壁を乗り越えるカギとなっ たのが、ブラウン管で見る側とは逆側から見れば明るくなる、という中村の発想だった。 ブラウン管と蛍光表示管は、陰極から陽極へ電子を飛ばし、制御電極で蛍光体への衝 突をコントロールするという基本構造は同じである。違いは表示を人がどの方向から見 るかである。ブラウン管は、電子が衝突している蛍光面から透過した光を蛍光面の反対 側から見る構造である。蛍光面を直接には見ないので明るさは低下するが、高電圧動作 7 で高い輝度の得られるブラウン管では透過した光を見るのでも十分な輝度が確保でき た。このブラウン管を裏側から見る構造にするという斬新な発想には、中村のブラウン 管技術者としての経験が活かされていた。中村は、蛍光面を直接に見れば、酸化亜鉛蛍 光体でも十分な輝度が得られるのではないかと考えた。つまり、図 2 のフロントガラス の側から、陰極を透かして見る構造にするのである。中村はこの着想をいわゆる「コロ ンブスの卵」のようであったと形容し、次のように語っている。 ブラウン管をやっているときに、裏側も見えていたわけですよ。私はカラーブラ ウン管も作っていましたけれども、表から見るのと裏から見るのとでは全然違う んですよ、輝きが。だから裏側から見れば、電子が当たった方から見れば明るい。 ただし、この構造を実現するためには、陰極が視認されないように陰極を極細線で形 成することが必要だった。そのような陰極はブラウン管には用いられていなかった。こ の問題を解決したのが、大久保だった。すでに別の用途向けに極細線の陰極を開発して いた日本電子材料が必要な技術を提供したのである14。 佐々木(早川電機工業)が声をかけてはじまった共同作業は、こうして、中村(神戸 工業)の基本構想、大久保(日本電子材料)の陰極、高木(静岡大学)と鳥生(大日本 塗料)の酸化亜鉛蛍光体など、産学をまたがる様々な組織の人間が知恵と技術を結集す ることで、蛍光表示管の基本的な構造を完成させたのである。 伊勢電子工業創業と蛍光表示管の事業化 1966 年 9 月、中村は三重県伊勢市に伊勢電子工業を設立し、蛍光表示管の製品化に 着手する。中村は伊勢の出身で、資本金 2000 万円は、佐々木の仲介の他、中村の親族 や、三重定期貨物自動車会社など地元企業、日本電子材料の大久保の支援によって賄わ れた。創業時は大久保が伊勢電子工業の社長に就任し、中村は副社長についたが、その 後ほどなくして大久保は退任し、中村が社長に就任した。社員は神戸工業の出身者など 12 名であった。 蛍光表示管の商品化の可能性が未だ明らかではない段階での起業にはリスクも伴っ たが、中村は「蛍光表示管はできたらそれに越したことはないけど、どのみち自分で(事 業を)やろうと思っていた」という。そもそも、佐々木の依頼よりも以前から、中村は 14 陰極には傍熱型と直熱型があり、直熱型の陰極の方が細いが、中村が専門としていたブラウ ン管で主に用いられていたのは傍熱型であった。傍熱型とは、ヒーターで陰極を温め、熱電子を 放出させる構造である。これに対して直熱型は、ヒーターそのものが放出する熱電子を利用する 構造であり、ポータブル・ラジオ用受信管などに用いられていた。 8 専門としていたブラウン管の技術を生かし、小型テレビに用いる小型ブラウン管を事業 化して独立することを考えていた。実際、伊勢電子工業は創業から 5 年間、蛍光表示管 の事業とは別に小型ブラウン管事業も手がけていた。神戸工業が富士通と合併する際に、 多くの技術者が大学や他の民間企業へと移籍した中で、自ら起業したのは中村だけだっ た。佐々木が蛍光表示管の開発を依頼したのも中村の起業への意欲を知っていたからで あった。また、中村の親族も、資金面などの援助を行い起業を積極的に後押しした。 創業はしたものの、当初、蛍光表示管はまだ実用化のレベルには達していなかった。 さらなる改良が必要だった。中村を中心に伊勢電子工業のメンバーは、実用化に耐えう るコスト、性能、品質を実現すべく、会社に泊まり込みながら、必死の努力を重ねた。 早川電機工業へのサンプル納入が実現したのは 1967 年 3 月であった。早川電機工業の 製品検査は数ヵ月を要し、実際に採用決定に至ったのは 9 月のことだった。佐々木が中 村らに声をかけてから 2 年、そして中村らが伊勢電子工業を創業し、蛍光表示管の試作 を開始してから 1 年後の成果であった。 この間、中村は新しい会社の基礎固めを進めていった。まず、地域の協力をあおぎな がら、用地の取得や従業員の採用などを進めていった。量産工場への投資のため、資本 の増強も急務であった。三重定期貨物自動車会社の坂倉社長の後援によって、百五銀行 や岡三証券の加藤誠一社長などからの支援を得ることができた。 1967 年 11 月には、 佐々 木の口添えもあり、中小企業金融公庫から 3000 万円の融資を受けた。 取引の拡大のために、PR にも気を配った。神戸工業時代の旧知の関係を生かして、 アメリカの業界誌 Electronics 誌のコーエン(Cohen)記者に伊勢の工場を取材してもら い、1967 年 5 月には同誌上に伊勢電子工業の記事が掲載される。蛍光表示管の開発成 功はエレクトロニクス業界で世界的に知られた出来事となった。国内では同年 7 月の日 刊工業新聞で蛍光表示管の開発が報じられ、翌 1968 年 1 月に同新聞社の「十大新製品」 の一つに選ばれたのも創業間もない伊勢電子にとって貴重な支えとなり、よい宣伝とな った。 とくに Electronics に掲載された記事の反響は大きかった。記事をみた日本電気がい ち早く関心を示し、同年の 8 月には大沢寿一専務が伊勢を訪問して蛍光表示管のライセ ンス交渉を打診してきた15。中村は佐々木とも協議し、11 月には日本電気へのライセン ス供与を決定する。また、大量生産に対応するため 1968 年には大手真空管メーカーの 15 当時の日本電気は電卓事業を保有し、ニキシー管のライセンス生産も行っていた。また、液 晶やプラズマ・ディスプレイ、LED など、ほとんどの主要なディスプレイ・デバイスの研究開発 を行っていた。ノリタケ伊勢電子の川井賢は、日本電気が電卓とディスプレイ・デバイスの事業 に多くの資源を投入していたことが、蛍光表示管の将来性に早くから着目した理由ではないかと 示唆している。 9 双葉電子工業に製造委託をし、69 年には双葉電子工業へもライセンス供与を行った16。 この結果、伊勢電子工業と、日本電気、双葉電子工業の 3 社が蛍光表示管を生産するメ ーカーとなった。日本電気と双葉電子工業から得られるロイヤリティ(売上の 3%)は 創業から間もない伊勢電子工業にとって貴重な収入源となった。両社から受けとった技 術供与料は総額 20 億円を超え、研究開発費や設備投資を支えた。 1967 年、早川電機工業は蛍光表示管を採用した世界初のオール IC 電卓「CS-16A」を 発売した。価格は 23 万円 と CS-10A の半分以下、部品点数は 15 分の 1 であった。これ 以降、蛍光表示管を採用した電卓が増え始め、1967 年には月産 3000 本程度だった伊勢 電子工業の生産量は、翌年には 3 万本に急増し、1970 年代に入ると月産 100 万本を生 産するようになる。さらなる新製品開発、販路拡大にむけて、伊勢電子は新たな人材を 採用していった。神戸工業時代の中村の仲間もさらに移ってきた。 電卓向け蛍光表示管の成功 電卓業界は「電卓戦争」に突入していった。大手電機メーカーだけでなく、立石電機 (現・オムロン)のような中堅メーカーや、ビジコンや栄光ビジネスマシンといったベ ンチャー企業など多数の企業が市場に参入し、1970 年には、30 社前後が 200 を超える 機種を生産して激しい競争を繰り広げていた。 1970 年に早川電機工業から社名を改めたシャープで専務取締役に昇格した佐々木は、 伊勢電子工業が蛍光表示管をシャープ以外に販売することを認めていた。伊勢電子工業 の販売量が増えるほど蛍光表示管は安価になり、シャープの電卓の普及にとっても利益 になると考えていたためである。実は、そもそも蛍光表示管が開発された当初、早川電 機工業では内製するために伊勢電子工業を工場ごと買収するという案も検討されてい た17。しかし佐々木はこの案に反対した。蛍光表示管の生産には真空管の技術蓄積が必 要であり、自社で開発努力を行うよりも「真空の技術屋を競争させてやったほうが良く なる」というのがその理由だった。 こうした方針があり、設立当初の伊勢電子工業は取引のほぼ全量がシャープ向けだっ たが、1970 年頃からカシオやリコーといった他の電卓メーカーにも蛍光表示管を供給 16 双葉電子工業は真空管の中でもラジオ用の受信管に高い技術を持っていた。 17 佐々木は当時のことを次のように振り返っている。 「工場を買い取ろうということで、早川徳 次さん自身が見に行ったそうですわ。だけど僕は、それはやめてくれ、育たないからと言って、 そんなことをするんだったらわしはもう辞めるよということまで。育てなきゃいかんのやと。早 川さんにしたら、社友や銀行から、松下とか三洋はブラウン管の工場を持っとる、シャープには ブラウン管の工場がないじゃないかというのが、富士通と日電と同じような関係があるわけです よね。そういう悔しい思いをしたくないから、しまった蛍光表示管の工場を放っとると、いうこ とでわざわざ買いに行こうと思っていた」(2007/7/6 インタビュー)。 10 し始める。 電卓業界の市場成長にあわせて伊勢電子工業の売上も急増した。図 4 に伊勢電子工業 の売上高推移を示している。初年度の 1966 年度に 500 万円でスタートした売上高は、 1968 年度には 4 億円、1969 年度には 19 億円と拡大し、1973 年度には 55 億円、1975 年 には 106 億円と拡大した。それまで電卓に用いられていたニキシー管は、蛍光表示管の 台頭によって市場がほぼ消滅した。 蛍光表示管は、電卓業界の競争激化をさらに加速させる革新でもあった。蛍光表示管 の製品化によって、電卓に LSI を搭載しほとんどの部品をワンチップ化することが容易 になったからである。とりわけ米テキサス・インスツルメンツ社が発売した電卓用 LSI 「TMS-1000」は、キーボードとディスプレイを接続すれば電卓を製造することが可能と なる、画期的な製品であった。回路の設計能力を持たず組立だけを行ういわゆる「四畳 半メーカー」が多数出現し、電卓の価格競争に拍車をかけた。 図 5 に見られるように、1970 年代の電卓の市場成長につれて、平均単価は急激に低 下している。1970 年時点の平均単価は、10 年後には 20 分の 1 以下にまで下がった。個 別の製品を見ても、短期間で急速な価格低下が生じていたことが容易に推察できる。 1970 年の時点で、シャープの 8 桁電卓は 8 万円程度だった。1971 年に立石電機が同じ 8 桁電卓の「オムロン 800」を 49,800 円で投入する。さらに、1972 年にカシオ計算機 が発売した 6 桁電卓「カシオミニ」は、12,800 円という突出した低価格で、発売後 10 ヵ月で 100 万台を売り上げる記録的なヒット商品となった。カシオミニの成功により、 翌年の 1973 年にはカシオがシャープを抜き電卓業界の市場シェア首位に立つ。そのカ シオミニのディスプレイ・デバイスを提供したのが伊勢電子工業であった。 厳しい競争を展開する電卓業界の要求に応じて、伊勢電子工業も蛍光表示管の性能向 上と価格低下を迫られた。発売当初には 1 本 800 円であった蛍光表示管の価格は、1971 年には 410 円、72 年には 210 円まで下落していた。伊勢電子工業は蛍光表示管の技術 開発を進め、カシオミニに供給する頃の蛍光表示管は、旧来の単管からガラス丸型多桁 管へと進歩していた(図 6)。単管では、多桁を表示するうえで複数個を連ねるので、 輝度合わせや位置合わせという煩雑な工程が必要となる。ガラス丸型多桁管はガラス基 板上に機能部分のほとんどを設置する構造になっているため生産効率が良く、材料も窓 ガラスなどに用いられる安価な市販のガラスを用いていた。 4. 伊勢電子工業と蛍光表示管のその後 伊勢電子工業の苦難と再生 電卓業界は高成長を続けたが、市場環境の変化も著しかった。1970 年代前半、伊勢 11 電子工業は 2 度にわたって危機を迎え、体制の立て直しを余儀なくされる。 最初の危機は、1971 年のドルショックによる市場混乱である。アメリカ大統領ニク ソンがドルと金の交換停止を発表したことで、ドルは大幅に切り下がった。電卓を含む 日本の輸出製品の競争力は低下し、減産する電卓メーカーが相次いだ。蛍光表示管の増 産を続け、創業 6 年目で従業員が 1000 人を超えるまで拡大していた伊勢電子工業はこ の突発的な需要縮小に対応できず、1 億 9000 万円の損失を計上した。中村は 1971 年秋 に岡三証券の加藤社長に緊急支援を要請し、さらに 1972 年春、三重県の百五銀行と、 その要請を受けた日本興業銀行が、伊勢電子工業の技術と蛍光表示管の将来性を評価し、 総額 4 億円の融資を決定する。あわせて、百五銀行は常勤役員、日本興業銀行は監査役 を派遣した。これによって、伊勢電子工業は最初の危機を乗り越えることができた。 だが、時間をあけずに次の危機がやってくる。一つの要因は、新たなディスプレイ技 術の登場だった。 「四畳半メーカー」の参入によって市場シェアを失ったシャープでは、 電卓の薄型化という新しい製品コンセプトによって差別化を図るため、佐々木が新たな ディスプレイとして液晶の開発を決断した18。1973 年には世界初の液晶電卓「EL-805」 を発売する。価格は 26800 円でカシオミニと比較すると高価だったにもかかわらず、 EL-805 は液晶の特長を生かし、薄型で、かつ単三電池 1 本で 100 時間使用可能という 従来にない訴求点を持っていた19。この製品がヒットした結果、蛍光表示管の電卓向け 市場は急激に縮小し始めた20。一方アメリカでは LED をディスプレイに採用した電卓が 登場し、やはり蛍光表示管の市場を追いつめていった。 新しいディスプレイ技術の競争圧力を受け、1973 年の第一次石油ショックの影響も 加わり、二度目の、そしてより深刻な苦境を迎えた伊勢電子工業は、日本興業銀行と百 五銀行との協議の末、1974 年 9 月に日本陶器(現・ノリタケカンパニーリミテド)の 傘下に入り経営再建に取り組むことになる。日本陶器は、元来は陶磁器のメーカーであ ったが、陶磁器への図柄の印刷のノウハウを基盤とする厚膜印刷技術を利用して、エレ クトロニクス分野への多角化を模索していた。その一環として、伊勢電子工業と 1973 年からガラス基板を使用した新しい蛍光表示管の共同開発を開始していたことから、日 本興業銀行と百五銀行の要請を受け、株式の 60%を取得して伊勢電子工業をグループに 加える決定を行った21。 18 液晶ディスプレイを実用化したのは佐々木が以前から交流の深かった RCA であった。 19 蛍光表示管を採用した従来の電卓では、単三電池 6 本で 2~3 時間程度の使用時間だった。 20 ただし、現在でも、企業の経理部などで用いられる事務用の卓上型電卓には蛍光表示管が用 いられている。計算ミスを少なくし、かつ、長時間使用しても目が疲れないようにするため、こ の製品カテゴリーでは視認性の高い蛍光表示管が採用されている。 21 2002 年、グループ再編にともなってノリタケ電子工業の蛍光表示管部門と合併し、ノリタケ 伊勢電子株式会社へ社名を変更している。 12 日本陶器の傘下に入ったことで、伊勢電子工業は販売面でも技術面でも態勢を立て直 していった。販売の面では、伊勢電子工業は技術開発および製造に集中し、国内と海外 の販売は日本陶器が広範な販売網を生かして販売する体制に変わった。技術面では、か ねてより共同開発を進めていたガラス平型多桁管(図 7)の量産化が実現した。 ガラス平型多桁管とは、厚膜印刷技術を利用して、ガラス基板上に配線や蛍光体、陽 極などを積層形成し、その上に陰極と制御電極を設置した後、フロントガラスを陽極の ガラス基板に直接封着して真空容器としたもので、図 2 で既に示したように今日でも使 われている蛍光表示管の基本構造である。丸型管よりもコンパクトになり、また、厚膜 印刷技術の導入でガラス基板に微細な電極形成をすることが可能となったので従来よ りも多様で複雑なパターンを表示することができた。日本陶器が伊勢電子工業に厚膜印 刷技術を導入し、またガラス基板を安定的に供給したことによって、伊勢電子工業はガ ラス平型多桁管を容易に量産することができるようになった22。この新技術を用いて、 電卓向け市場の衰退後、伊勢電子工業は新たにレジなどの産業用機器向けや音響向けに 蛍光表示管の用途を拡大した。 他社の動向と蛍光表示管業界の現在 電卓市場からの脱却は、双葉電子工業と日本電気にとっても共通の課題だった。両社 は伊勢電子工業とは異なる用途先に進出した。具体的には、自動車、音響、VTR という 3 つの市場向けに蛍光表示管の用途を開拓した。これらの機器に搭載されるディスプレ イが表示するのはタイマーやレベルメータが中心で、複雑な文字や図柄の表示は必ずし も必要ではない。その代わり、高い視認性を確保するため、輝度の向上や多色化が求め られた。伊勢電子工業は、これらの汎用品の市場を回避し、蛍光表示管で様々な文字や 図柄を表示できるよう、ディスプレイの表示容量を開発の焦点に定めた。 それぞれの技術開発努力の結果、図 8 のような市場地位の変化が生じた。蛍光表示管 の主用途としては自動車、音響、VTR 向けが成長し、これらのボリュームゾーンを押さ えた双葉電子工業と日本電気の 2 社が、1980 年代には市場シェアの 40%ずつを占めた。 中でも双葉電子工業は、1970 年代から積極的に海外生産を進め、高い価格競争力を保 持していた。双葉電子工業と直接に競合し、劣位に立たされた日本電気は、1998 年に はサムスン SDI に事業譲渡し市場から撤退することになる。他方、伊勢電子工業は、電 卓向け市場の衰退以後、低価格の単純な数字表示の分野から撤退したが、蛍光表示管で より複雑で多様な文字や図形が表示できるよう、高精細化、多色化に取り組むとともに、 駆動回路、メモリー、電源などをディスプレイと一体化した蛍光表示管モジュールの開 22 1977 年度に伊勢電子工業が受賞した大河内記念生産賞の対象はこのガラス平型多桁管である。 13 発に力を注ぎ、新しい表示分野の開拓を進めた(図 9)。現在も、高輝度・高精細表示、 そして大型の蛍光表示管による表示システム(デジタル・サイネージ分野)などの商品 開発・市場開拓に努めている。 1967 年に単管の蛍光表示管が実用化されてから 40 年が経過した今でも、蛍光表示管 はディスプレイ・デバイスとして存続し、我々の目に触れ続けている。サムスン子会社 の SSVD や中国の ZEC など、新たに参入してきた企業との競争にもさらされながら、伊 勢電子工業は現在でも業界で一定の地位を占め続けている。双葉電子工業が生産拠点を 海外に移していることから、現在同社は蛍光表示管の唯一の国内生産メーカーとなって いる。 5. 結び 本ケースは、産学から様々な技術者、研究者が集まって日本オリジナルのデバイス技 術を開発し、新たに創業した企業が新しい市場を創造し、立ち上げた事例である。ベン チャー・キャピタルのような支援制度が未整備であった時代に、何がこれを可能にした のか。初期の構想から蛍光表示管の事業化に至るまでの過程に関して、大きく二つの点 を指摘しておきたい。 まず指摘しなくてはならないのは、開発の初期の段階における様々な人々による共同 作業による創造の重要性である。 それは、佐々木が神戸工業などで築いた、産学にまたがる人脈に蓄積されていた真空 管技術に関連する高度な知識を結集したものであった。佐々木の神戸工業時代の部下だ った中村、神戸工業時代に取引があった日本電子材料の大久保社長、同じく神戸工業時 代に取引があった大日本塗料の鳥生や、静岡大学の高木教授らが、組織の枠を超えて協 力することによって、蛍光表示管という技術革新が結実した。 蛍光表示管の開発を技術進歩の大きな流れの中に位置づけるなら、トランジスタが真 空管にとって代わる時代に、新技術による新製品(トランジスタを利用した小型・低価 格の電卓)を実現するために、代替される旧技術の革新(真空管を利用した蛍光表示管) が生み出されたということになる。いわば、真空管からトランジスタへという大きな技 術転換の局面で新旧技術が綾模様を織り出したイノベーションであったわけだが、その 実現を、日本の真空管、トランジスタ技術開発で先頭を走っていた神戸工業で形成され ていた人的なネットワークが担ったのである。 もうひとつ指摘しなくてはならないのは、こうして誕生した蛍光表示管を事業化する ために自ら創業に踏み切った中村が果たした役割の重要性である。 伊勢電子工業の創業に際しても神戸工業の人脈とその協力が重要な役割を果たして 14 いる。当初開発拠点を提供し、伊勢電子の最初の社長に就いた大久保が創業に至るまで に果たした役割は大きかったし、創業メンバーの多くは、神戸工業出身の技術者であっ た。佐々木も協力を惜しまなかった。しかしそれもそもそも中村が自ら創業を決断した からこそ実現したことであった。神戸工業から多くの技術者が去っていったが、その行 き先はいずれも大学や他の民間企業だった。起業したのは中村一人だった。 中村と彼のもとに集まったメンバーは、不退転の決意で、蛍光表示管の実用化・量産 体制の確立に向けて必死の努力を重ねるとともに、資金調達、地元行政との協力、販売 体制など、新興の企業としての体制整備に努めていった。中村が、優れた着想を持つ技 術者であっただけでなく、自らリスクをとって事業を興す起業家でもあったことが、蛍 光表示管の市場の創造と、その後の発展を牽引したといっていいだろう。 新興の独立企業として事業拡大を進めていった伊勢電子工業は、危機に見舞われ、ノ リタケグループの一員となった。独立した企業としての歴史は幕を閉じた。しかし、そ の後も今日に至るまで蛍光表示管の生みの親として新たな市場の開拓を続け、唯一の国 産メーカーとして粘り強く事業を展開している同社の姿勢の背後には、中村が率先し、 育んだベンチャー精神が色濃く残っている。 (文中敬称略) 参考文献 相田洋『電子立国日本の自叙伝 5』日本放送協会出版、1996 年。 岸野隆雄『蛍光表示管』産業図書、1990 年。 中村正『蛍光表示管を世界へ』私家版、2000 年。 中村正・清住謙太郎『蛍光表示管とその応用』日刊工業新聞社、1977 年。 佐々木正『原点は夢 わが発想のテクノロジー』講談社、2000。 佐々木正『人がやらない、人がやれない』経済界、2000。 佐々木正『わが「郊之祭」──感謝・報恩の記』財界通信社、2005。 矢野経済研究所『ディスプレイ市場の実態と将来展望』矢野経済研究所、各年。 15 図 1 蛍光表示管の利用例 資料:中村正氏講演会資料 16 図 2 蛍光表示管の分解斜視図と断面図 資料:岸野(1990) 17 図 3 蛍光表示管業界の市場シェア 数量シェア(%) 17 双葉電子工業 13 48 ノリタケ伊勢電 子 SSVD ZEC その他 17 5 金額シェア(%) 5 3 8 双葉電子工業 ノリタケ伊勢電 18 子 SSVD ZEC 65 その他 資料:長谷川典久氏講演会資料 18 図 4 伊勢電子工業の売上高推移 120 100 80 億 円 60 40 20 0 66 67 68 69 70 71 72 73 74 75 76 77 78 79 80 19 19 19 19 19 19 19 19 19 19 19 19 19 19 19 注:決算期の二度の変更に伴い、1970 年と 1977 年のみ 8 ヵ月分の売上高である。 資料:中村(2000) 19 図 5 日本における電卓の生産 10000 500,000 生産数量(万台) 9000 生産金額(億円) 450,000 平均生産単価(円)(右目盛) 8000 400,000 7000 350,000 6000 300,000 5000 250,000 4000 200,000 3000 150,000 2000 100,000 1000 50,000 0 0 1965 1966 1967 1968 1969 1970 1971 1972 1973 1974 1975 1976 1977 1978 1979 1980 1981 1982 1983 1984 1985 1986 1987 1988 1989 1990 資料:『機械統計年報』より作成。 20 図 6 単管とガラス丸型多桁管 資料:中村正氏講演会資料 図 7 ガラス平型多桁管 資料:中村正氏講演会資料 21 図 8 蛍光表示管業界 3 社の用途市場別売上高推移 700 伊勢 600 電子 その他 工業 自動車・音響・VTR 500 その他 双葉 400 電卓 VTR 電子 億 工業 円 音響 300 自動車 その他 200 電卓 日 VTR 本 100 音響 電 気 電卓 自動車 0 1982 1985 1989 1992 資料:矢野経済研究所、各年。 図 9 画像管とモジュール 資料:中村正氏講演会資料 22 付表:伊勢電子工業および関連業界の動向 年 月 伊勢電子工業 関連業界の動向 1938 4 佐々木正、逓信省電務局電気試験所(現・産業技術 総合研究所)に入所 8 佐々木正、川西機械製作所入社 1943 10 中村正、川西機械製作所入社 1945 2 中村正、多摩陸軍研究所電波兵練習所に入隊 1947 佐々木正、米ウエスタン・エレクトリック社へ派遣 1949 8 株式会社川西機械製作所、神戸工業株式会社に社名 変更 1951 佐々木正、米RCA社へ派遣 1953 神戸工業、日本初のトランジスタ製造に成功 製 1955 1 造 1964 3 シャープ、世界初のオールトランジスタ式電卓CS- 10Aを発売 4 佐々木正、神戸工業を退社しシャープ入社 1965 佐々木正、中村正らと新しい電卓用ディスプレイの 開発に着手 1966 5 中村正、神戸工業退社 9 中村正ら、伊勢電子工業株式会社を創設。日本電子 材料京都研究所を借り、小型ブラウン管製作と蛍光 表示管の研究試作を開始 11 シャープ、伊勢電子工業と蛍光表示管に関する研究 委託契約 1967 3 シャープに蛍光表示管のサンプル納入開始 5 米Electronics 誌に蛍光表示管の開発成功の記事掲載 8 日本電気の大沢寿一専務取締役、伊勢電子工業を訪 問しライセンス供与を要請 9 シャープ、電卓に蛍光表示管を採用決定 11 中小企業金融公庫の融資 日本電気へライセンス供与 12 シャ ープ 、蛍 光表 示管 を初めて 搭載した 世界初の オールIC電卓CS-16Aを発売 1968 2 双葉電子工業へ製造委託 神戸工業、富士通と合併 1969 12 双葉電子工業へライセンス供与 1971 8 ドル・ショック 9 小型ブラウン管事業から撤退 1972 5 日本興業銀行と百五銀行の融資 8 カシオ計算機、カシオ・ミニを発売 1973 6 シャープ、世界初の液晶電卓EL-805を発売 12 日本陶器(ノリタケカンパニーリミテド)と平型ガ ラス多桁管の共同開発 1974 9 日本陶器の資本参加を受け、子会社となる 1977 米クライスラー社、車載用クロックに蛍光表示管を 採用 1998 日本電気、サムスンSDIに事業譲渡し蛍光表示管から 撤退 2002 ノリタケ電子工業の蛍光表示管部門と合併し、ノリ タケ伊勢電子株式会社に社名変更 23 IIR ケース・スタディ 一覧表/2004-2009 NO. 著 者 タ イ ト ル 発行年月 CASE#04-01 坂本雅明 「東芝のニッケル水素二次電池開発」 2003 年 2 月 「富士電機リテイルシステムズ(1): 自動販売機―自動販売機業界 CASE#04-02 高梨千賀子 2004 年 3 月 での成功要因」 「富士電機リテイルシステムズ(2): 自動販売機―新たなる課題へ CASE#04-03 高梨千賀子 2004 年 3 月 の挑戦」 「富士電機リテイルシステムズ(3): 自動販売機―飲料自販機ビジ CASE#04-04 高梨千賀子 2004 年 3 月 ネスの実態」 伊東幸子 「ハウス食品: 玉葱催涙因子合成酵素の発見と研究成果の事業 CASE#04-05 2004 年 3 月 青島矢一 化」 「オリンパス光学工業: デジタルカメラの事業化プロセスと業績 V 字 CASE#04-06 青島矢一 2004 年 3 月 回復への改革」 「東レ・ダウコーニング・シリコーン: 半導体パッケージング用フィル CASE#04-07 堀川裕司 2004 年 3 月 ム状シリコーン接着剤の開発」 「日本開閉器工業: モノづくりから市場創造へ「インテリジェントスイ CASE#04-08 田路則子 2004 年 3 月 ッチ」」 CASE#04-09 高永才 「京セラ: 温度補償水晶発振器市場における競争優位」 2004 年 3 月 「二次電池業界: 有望市場をめぐる三洋、松下、東芝、ソニーの争 CASE#04-10 坂本雅明 2004 年 3 月 い」 「前田建設工業: バルコニー手摺一体型ソーラー利用集合住宅換 CASE#04-11 三木朋乃 2004 年 3 月 気空調システムの商品化」 尹諒重 CASE#04-12 「東洋製罐: タルク缶の開発」 2004 年 3 月 武石彰 藤原雅俊 CASE#04-13 「花王: 酵素入りコンパクト洗剤「アタック」の開発」 2004 年 10 月 武石彰 軽部大 CASE#04-14 「オリンパス: 超音波内視鏡の構想・開発・事業化」 2004 年 10 月 井森美穂 「三菱電機: ポキポキモータ 軽部大 CASE#04-15 新型鉄心構造と高速高密度巻線による高性能モーター製造法の 2004 年 11 月 小林敦 開発」 青島矢一 CASE#05-01 「テルモ(1): 組織風土の改革プロセス」 2005 年 2 月 宮本圭介 青島矢一 CASE#05-02 「テルモ(2): カテーテル事業の躍進と今後の課題」 2005 年 2 月 宮本圭介 青島矢一 CASE#05-03 「東レ(1): 東レ炭素繊維複合材料“トレカ”の技術開発」 2005 年 2 月 河西壮夫 青島矢一 CASE#05-04 「東レ(2): 東レ炭素繊維複合材料“トレカ”の事業戦略」 2005 年 2 月 河西壮夫 CASE#05-05 兒玉公一郎 「ヤマハ(1): 電子音源に関する技術蓄積」 2005 年 2 月 「ヤマハ(2): 携帯電話着信メロディ・ビジネスの技術開発、ビジネ CASE#05-06 兒玉公一郎 2005 年 2 月 スモデル構築」 「二次電池業界(改訂): 技術変革期における新規企業と既存企業 CASE#05-07 坂本雅明 2005 年 2 月 の攻防」 CASE#05-08 高永才 「京セラ(改訂): 温度補償水晶発振器市場における競争優位」 2005 年 2 月 CASE#05-10 坂本雅明 「東北パイオニア: 有機 EL の開発と事業化」 2005 年 3 月 「ハイビジョンプラズマディスプレイの実用化 CASE#05-11 名藤大樹 2005 年 7 月 プラズマディスプレイ開発協議会の活動を中心に」 武石彰 CASE#05-12 金山維史 「セイコーエプソン: 自動巻きクオーツ・ウォッチの開発」 2005 年 7 月 水野達哉 北澤謙 「トレセンティテクノロジーズによる新半導体生産システムの開発 CASE#05-13 井上匡史 2005 年 10 月 ―300mm ウェハ対応新半導体生産システムの開発と実用化―」 青島矢一 武石彰 高永才 「松下電子工業・電子総合研究所: CASE#06-01 2006 年 3 月 古川健一 移動体通信端末用 GaAs パワーモジュールの開発」 神津英明 「川崎製鉄・川鉄マシナリー・山九: 平野創 CASE#06-02 革新的な大型高炉改修技術による超短期改修の実現 2006 年 8 月 軽部大 大ブロックリング工法の開発」 武石彰 「富士写真フイルム: CASE#07-01 宮原諄二 2007 年 7 月 デジタル式 X 線画像診断システムの開発」 三木朋乃 青島矢一 CASE#07-02 「ソニー: フェリカ(A):事業の立ち上げと技術課題の克服」 2007 年 7 月 鈴木修 青島矢一 CASE#07-03 「ソニー: フェリカ(B):事業モデルの開発」 2007 年 7 月 鈴木修 武石彰 CASE#07-04 「東芝: 自動車エンジン制御用マイコンの開発」 2007 年 8 月 伊藤誠悟 青島矢一 CASE#07-05 朱晋偉 「無錫小天鵝株式会社: 中国家電企業の成長と落とし穴」 2007 年 8 月 呉淑儀 「日立製作所: CASE#07-06 青島矢一 2007 年 9 月 LSI オンチップ配線直接形成システムの開発」 CASE#07-07 坂本雅明 「NEC: 大容量 DRAM 用 HSG-Si キャパシタの開発と実用化」 2007 年 9 月 小阪玄次郎 CASE#08-01 「TDK: 積層セラミックコンデンサの開発」 2008 年 1 月 武石彰 「東京電力・日本ガイシ: CASE#08-02 福島英史 2008 年 3 月 電力貯蔵用ナトリウム―硫黄電池の開発と事業化」 青島矢一 「セイコーエプソン: CASE#08-03 2008 年 5 月 北村真琴 高精細インクジェット・プリンタの開発」 高梨千賀子 CASE#08-04 武石彰 「NEC: 砒化ガリウム電界効果トランジスタの開発」 2008 年 9 月 神津英明 小阪玄次郎 CASE#08-05 「伊勢電子工業: 蛍光表示管の開発・事業化」 2008 年 9 月 武石彰 青島矢一 CASE#09-02 「荏原製作所: 内部循環型流動層技術の開発」 2009 年 6 月 大倉健 藤原雅俊 「木村鋳造所: CASE#09-03 2009 年 7 月 積田淳史 IT を基軸とした革新的フルモールド鋳造システムの開発」